御 祭 神 - ごさいじん -
当社の御祭神は「天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」 である。『古事記』では、「天之御中主大神」は天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に最初 に出現した大神であり、神代最高、大宇宙根元の神で、造化の三神の一神としてその中心を司る神である。
当社の御祭神は「天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」 である。『古事記』では、「天之御中主大神」は天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に最初 に出現した大神であり、神代最高、大宇宙根元の神で、造化の三神の一神としてその中心を司る神である。
当社の起源はとても古く、少なくとも今より約1300年前までさかのぼる。天平5年(733年)に完成した
『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の中に「神門郷(かんどのごおり)」の神祇官社
(じんぎかんしゃ)が25社、國庁社が12社と記されており、当社はその社の中で筆頭にあたる「美久我社(みくがのやしろ)」
とされる。よって当社は、733年よりも以前の飛鳥時代に存在した社であるが、正式な年代は不明である。
当社は、神門水海のほとりにある「美久我林(みくがのもり)」(西は海岸に面し、
「薗の長浜」の南から石見の國境中島埼までの、いわゆる國引きの綱にあたる砂丘地)を、
「美久我の神」を土地の神とし守護していた。また、延長五年(927年)の『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にも、
神門郷の筆頭に「彌久賀神社」と登録されている。この時代に筆頭であった当社は、多くの崇拝者と相当の経済力を
もっていたと考えられる。
当社を中世以降は、勧請神として出雲國の「若一王子権現御社(にゃくいちおうじごんげんおやしろ)」
といった。その若一王子権現御社は全国で数社あるが、それは熊野大社信仰では修行道での崇敬する加持祈祷の神社であって、
「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」を奉っている。当社は、その天照大御神を奉った社ではない。
天照大御神の祖父の神である「天之御中主大神」を奉っていることから、若一王子権現御社となったものと思われる。
また享保2年(1717年)の雲陽誌や天保4年(1833年)の出雲神社巡拝記には、
若一王子権現御社の祭神は、「天之御中主大神」、合祀祭神「宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)」と記されている。
元禄時代、神社火災があったと伝えられている。元禄12年に再建されたとあるが、それから明和4年にかけて3枚の
棟札に「彌久賀大明神」と記されている。しかし、社名は時の国主等の命によって「若一王子権現御社」となったり、
「彌久賀大明神」となったりしたと考えられる。
また、社格については嘉祥4年(850年)に正六位上に叙せられ、
明治4年(1872年)郷社となり昭和20年(1945年)県社に内示されたが、それに関わる書類は、島根県庁焼討事件で焼失した。
戦後新憲法制定による旧社格制度の廃止により国家神道から宗教法人になった。