隠岐騒動 〜隠岐自治政府物語〜 |
島根県の隠岐には、江戸時代最後の年慶応四年3月から80日間ほどの間に全国でも稀に見る 自治政府が存在していました。現在では、この自治政府の誕生から解体までの一連の動きを、 隠岐騒動と言います。島根県民である私も、この騒動の事を最近県の歴史書を見るまでは知り ませんでした。しかしながら、自分の地元の歴史を知らないという事は、県民として恥ずかしい 事と思い、研究する事にしてみました。 連載第1回、 隠岐は、元々奈良時代の頃から重大な罪を犯した政治犯の流刑地となっており、その中でも、 承久の乱により流刑にされた後鳥羽上皇などは、特に有名です。その流された者の中には、皇 族や公家の人も含まれていました。そのような、事も有って隠岐の島民の人々は古くから尊王 の意識が高かったようです。また現在も伝わる牛突きも、この時後鳥羽上皇を慰める為に始ま ったのが起源とされています。 隠岐は、大きく分けて島前、島後と分けられます。当時、隠岐は幕府の直轄領でしたが領の経 営は、松江藩が取り仕切っていました。幕末になると欧米列強の艦船が、日本海にも頻繁に現 れるようになっており、その中でも1864年4月15日に西郷湾に外国船が入港した際に代官の 枝元喜左右衛門が、恐れをなして中々出向しようとしなかった上にようやく出向したものの、焦 って船内に刀を置き忘れてきて民間人に取りに行かせると言う不祥事も発生する有様でした。 このような事態をみた島民たちの中には、松江藩に対する不信感が強まっていきました。 連載第2回、 また、島民の不信感を募らせる要因となったのは、藩士の無様な立ち回りだけでは有りません でした。当時、1783年から1853年までの70年間、天災による凶作が8階もあり死者が1500人に も達した年も有りました。その凶作と一部の商人や役人による不当な米価の引き上げで、この 間に米の値段は8倍にも値上がりしました。また、当時の腐敗し切った幕府の松江藩士達は 、隠岐防衛の任務を忘れ続々と隠岐から出て行きました。このような状態になれば、島民の間 に反幕府的な思想が広がるのも無理はない事だと思います。 また、1862年から松江藩は隠岐警護の為に、イギリス製鉄艦(艦名、一番八雲丸)とアメリカ製 木製艦(艦名、2番八雲丸)を購入したほか、翌年には、従来の陣屋(郡代屋敷)に加えて、島後 の西郷に御番屋(宿場町の出入りをチェックする番人の詰所の事)と調練場を設置し、更に島 民によって組織された農兵部隊も設置されました。農兵部隊の規模は足軽が100人で、藩士の 錦織録蔵(参考にしたホームページには、苗字の読みがにしきおりとされていたが、ここら辺り では、このように書き表すとにしこうりと発音するので真意の程は、分かりませんでした、名前は ろくぞうと発音します)の指揮の基に鍛錬をかさねていました。そして、黒船が西郷港に入港した 場合、もしくは沖合いに停泊した場合には、各村ごとに半ドンや太鼓で知らせるようになっていま した。 連載第3回, その頃京都では、公武合体そして攘夷を目指した孝明天皇が、同天皇また公卿などと親交の あった隠岐出身で京都にいた漢学者で後に明治天皇の侍講(天皇のそばに奉仕して書物を講 義する人)となる中沼了三に命じて元冶1年(1864年)、現在の奈良県十津川村に文武館(学問 武道の道場)を開設すると言う出来事がありました。彼は崎門学(山崎安斎を祖とする朱子学の 一派で尊王論の中核として強力な行動原理を持っていた学問)の学者で、地方の尊王活動に対 する指導も京都烏丸竹谷町にあった彼の私塾で行っていたので、当然地元の隠岐からも学生 が京都に出向いて教育を受けていた様です。 そこで教育を受けた隠岐出身者の中に隠岐山田村(現;五箇村)出身の中西毅男がいました。 その父中西喜六は、山田村の水若酢神社境内に私塾府徴館(本当は、府の下には月がつく漢 字です)を開き、島民を教育していました。 彼は京都から帰った後府徴館で教鞭をとっていましたが、中村了三が文武館を開いたのを知る と、隠岐にも同様な施設を開設を提唱し加茂(隠岐に昔あった地名なのかそれとも、島根県本 州がわにある銅鐸が、大量に出土した事でも有名な大原郡加茂町なのかは、不明です)の井上 香彦らと同士派を結成し「文武館設置嘆願書」を製作して73(もしくは72)人全員の捺印を得た上 で西郷陣屋の郡代、山郡右エ門に差し出しました。 (次回へ続く) この事件にちなんで、隠岐の西郷町では、隠岐コミューン祭というイベントを開催しています。 |
| 参考にした文献、 明治百年島根の百傑 参考にしたホームページ |