創立70周年にあたって
出雲視覚障害者福祉協会会長 若 築 博 延
本協会は敗戦後間もない昭和23年の秋、世の中がまだ混とんとしていた時代に「あなたの灯を今少し高く掲げてください」と聖女ヘレンケラーの来日があり、私たちも「ただ目の不自由を訴えるだけではいけないのではないか…。残された力を結集しよう」と、故・中祖一雄氏と故・高尾正徳氏が中心となって市内の同志数名に呼びかけ、県内最初の視覚障がい者の団体として、市内の県立浜山公民館で「出雲市盲人協会」として力強く誕生したものであります。
一方、中央においては「日本盲人会連合」が大阪府の二色浜で結成され、さらには翌24年の春には「島根県盲人協会」が同じく出雲市の県立浜山公民館で設立されたのであります。
そして、国では民生安定のため、昭和23年に「民生委員法」が制定され、翌24年には「身体障害者福祉法」が制定されたのであります。
本協会の創立はその当時に行われたものであり、いかに先駆的快挙であったか伺い知ることができます。以来今日まで70年間、多くの先輩の皆様方の手によって活動が続けてこられたのであります。
昭和36年には盲人ホームが建設され、各種の会合並びに研修そして交流の場として大いに利用されてきました。しかし昭和62年に新たに「勤労身体障害者スポーツ文化体育施設」として「サンアピリティーズ出雲」が建設され、盲人ホームが取り壊されることになったことは誠に残念なことではありましたが、「これも仕方のないこと」とあきらめるしかなかったのであります。
本会は、昭和37年から毎年9月に「高齢者マッサージ奉仕」を行い、今年で57回を迎えることとなりました。これまでに市長様を始め多くの皆様から感謝状をいただき今日に至っているわけでありますが、中でも平成6年(1994年)に、厚生大臣井出正一様から感謝状をいただいたことは本会にとっての誇りであります。
次に、福祉運動についてでありますが、情報のバリアの解消については、IT機器の活用を始めとして、音訳並びに点訳のボランティアの皆様方の協力をいただいているところであります。そして、移動の自由を失った視覚障がい者にとって自由に移動することは大変重要な問題でありますが、本会では昭和51年に会員の移動と会合でのお手伝いをいただくため、事務局を開き多くの市民の皆様のご理解とご支援のもとヘルパー事業を始めたのであります。その後、平成元年には社会福祉協議会に専従の職員を配置いただき正式にガイドヘルパー事業として行っていただいているところであります。また、国では2000年(平成12年)に介護保険法が制定され、現在では介護事業所でも移動支援事業が行われているところであります。
出雲市では昭和56年に障害者モデル都市宣言がなされ、さらには平成9年には「出雲市福祉のまちづくり条例」が策定され、障がい者や高齢者はもちろん、市民の誰もが暮らしやすいバリアフリーの住みよい街を目指してハード面、ソフト面ともに事業が進められてきました。
また、国では1982年に国際障害者年を機会に「完全参加と平等」が叫ばれるようになり、2014年には障害者権利条約が批准され、2016年に障害者差別解消法が施行され、名実ともに「ノーマライゼイション」の思想が啓発されているところであります。
今後、出雲市においても「障害者差別解消法」の条例が策定され、障がい者の皆さんが住みよい明るい街づくりが構築されることを期待するものであります。
一方、視覚障がい者の職業問題については、これまで視覚障がい者の唯一の職業であった「按摩、はり、灸業」の業権が「無免許業者」によって侵されています。我々は自らの自立のため、さらには後輩のためにも、これまで多くの先輩の皆さんによって守られてきた「按摩、はり、灸業」を守っていかなくてはなりません。それには我々あはき師が勇気をもって立ち上がることではないでしょうか。
出雲視覚障害者福祉協会の活動が今日まで続けられてきた陰には、視覚障がい者の福祉と文化の向上のため、歴代の会長様を始め多くの先輩の皆様方の団結とたゆまぬ努力と愛会精神があって今日に至ったものであります。
我々も本日を一つの機会としてこれからも出雲市における視覚障がい者福祉運動を会員一同一丸となって進めていこうではありませんか。
出雲視覚障害者福祉協会創立70周年記念式典要綱
1 目的:本会の創立70周年を一つの契機にこれまで本会のためにご尽力いただいた多くの先人を始め、ガイドヘルパー、ボランティアの皆様に感謝するとともに、会員相互の信頼と友情を深め組織の拡充と団結を図り、福祉施策の充実強化につとめ、視覚障害者に対する一般社会の理解と協力を得ることを目的とする。
2 名称:出雲視覚障害者福祉協会創立70周年記念式典
3 日時:平成30年(2018年)4月1日(日)午前11時30分〜14時
4 会場:出雲市社会福祉センター4階大ホール(出雲市今市町本町)
5 主催:出雲視覚障害者福祉協会
6 後援:出雲市、社会福祉法人出雲市社会福祉協議会
出雲市身障者福祉協会、公益社団法人島根県視覚障害者福祉協会
70周年記念式典次第
第一部 式典 11時30〜12時
1 開式の言葉
2 物故者に対する黙とう
3 会長あいさつ
4 感謝状贈呈ならびに功労者表彰
@感謝状贈呈
ガイドヘルパー
持田緑様、伊藤俊江様、米山秋子様、古割千歳様
点訳ボランティア
出雲市アイアイ会様
点字ボランティア「ブライユ」様
障害者作業所 トライ様
音訳ボランティア
ライトハウスライブラリー音訳奉仕の会「ひびき出雲」様
音訳ボランティアいずも様
音訳ボランティアグループやまびこの会様
斐川音訳ボランティア・トゥインクル様
音訳ボランティアグループせせらぎ様
朗読ボランティアひばりのうた様
A功労者表彰
野津春雄様、坂本節明様
5 出雲市長祝辞ならびに感謝状授与
出雲市長 長岡秀人様
6 来賓祝辞
1. 島根県議会議員 出雲視覚障害者福祉協会顧問 佐々木雄三様
2. 社会福祉法人出雲市社会福祉協議会 会長 渡部英二様
3. 公益社団法人島根県視覚障害者福祉協会 会長 小川幹雄様
4. 出雲市身障者福祉協会 会長 和泉 積様
7 祝辞祝電披露
8 閉式の言葉
第二部 祝賀会 12時〜14時
祝 辞
出雲市長 長 岡 秀 人
本日、ここに、出雲視覚障害者福祉協会創立70周年記念式典が、このように盛大に開催されますことをお喜び申しあげますとともに、ご出席の皆様方に心からお祝いを申しあげます。
また、日頃から、市の障がい者福祉施策の推進にご理解ご協力を賜り、厚くお礼を申しあげます。
出雲視覚障害者福祉協会におかれましては、戦後間もない昭和23年の秋に、島根県で最初の視覚障がい者の団体として、産声をあげられました。この間、ボランティア活動やスポーツ活動など様々な活動に積極的に取り組んでおられ、会員の皆様の活動に深く敬意を表します。
特に、半世紀以上に渡りボランティア活動として実施してこられた、高齢者無料マッサージサービスは、高齢者の皆様に大変喜ばれているとうかがっています。皆様方のこうした奉仕活動が、地域の方々との交流を深め、さらには市全体の健康と福祉の増進につながっていくものと考えております。
また、市への福祉施策への提言も積極的に行っていただいております。福祉のまちづくりに関するバリアフリー整備基準や、「広報いずも」、「いずも市議会だより」の点字・音声版広報の発行に対する提言などにより、市の社会福祉の向上に大きく寄与いただいているところです。
本市におきましては、その提言もふまえ、視覚障がい者の方への情報提供の充実を図るため、点字・音声版広報の発行、また、地域生活支援事業における移動支援など、視覚障がい者の方の自立と社会参加促進に努めています。
市としては、今後も、当事者の皆様・関係団体の皆様のご意見を伺いながら、障がいのある方の自立と社会参加を一層促進するとともに、障がいのある方もない方も、安心して生活ができるまちづくりを推進していく所存ですので、皆様のご理解とご協力をお願いいたします。
最後に、出雲視覚障害者福祉協会様の今後益々のご発展と、会員の皆様の益々のご活躍をお祈り申しあげ、お祝いの言葉とさせていただきます。
お祝いの言葉
島根県議会議員 佐 々 木 雄 三
出雲視覚障害者福祉協会におかれましては、このたび創立70周年を迎えられましたことに、心からお祝い申し上げます。
貴協会におかれましては、視覚障がい者への支援や視覚障がい者への理解を深めるための活動を展開されるなど、視覚障がい者の福祉の向上に精力的に取り組んでこられましたことに、深く敬意を表します。
近年、障害者差別解消法の制定や障害者権利条約が批准されるなど、障がい者を取り巻く国内外の環境が大きく変化している中で、島根県では、平成30年度からの新しい「島根県障がい者基本計画」を策定します。この計画では、障がいのある人もない人も分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共に生きる社会の実現を目指すことを基本理念とし、障がい者差別の解消のための取組、障がいへの理解を深めるための広報や啓発、地域生活の充実や就労支援など、総合的な障がい者施策の推進を図ろうとするものです。
視覚障がい者への支援としましては、従来から盲導犬の育成・貸与や、点訳・朗読奉仕員の養成、新聞記事等の点字データによる配信、歩行訓練や情報機器を活用したコミュニケーション訓練などを実施しています。
さらに、視覚障がいのある方からの御要望を受け、2人乗りのタンデム自転車が県内の公道を走れるようになったり、点字パトロールカードが県内の交番、駐在所で使用されるようになるなど、視覚障がい者が暮らしやすい地域づくりに取り組んでいます。
しかし、全国で視覚障がい者の駅でのホーム転落事故や、県内でも盲導犬の入店拒否事案があるなど、視覚障がい者への理解、配慮が不十分な状況もあります。県では平成23年度から、障がいの特性を理解し、日常生活の中でちょっとした配慮を実践する「あいサポート運動」に取り組んでおり、県内のあいサポーター数は約3万5千人となりました。今後も障がいのある方への理解を深めるための啓発に努め、障がいの有無にかかわらず、地域で共に暮らすことができるよう取り組んでまいります。
終わりに、出雲視覚障害者福祉協会のますますの御発展を祈念しまして、お祝いの言葉といたします。
一人ひとりが尊重される社会に向けて、共に前進しましょう
出雲市社会福祉協議会 会長 渡 部 英 二
出雲市視覚障害者福祉協会創立70周年おめでとうございます。視覚障害者どうしの信頼と協力関係を築きながら、当事者の立場から出雲市の福祉充実を目指して活動して来られた歴代会長はじめ会員のみなさまに心から敬意を表したいと思います。
今から20年以上前のことになりますが、合併前の出雲市において私が福祉部長に就任したとき、「時代の追い風を受けている高齢者福祉に対し、このままでは障害者福祉は大きく立ち遅れてしまうのではないか」という危惧を強く抱きました。障害者福祉を前進させる、よい手立てはないかと考えた結果、行き着いたのが「バリアフリー」の概念であり運動でした。当時は「バリアフリー」は目新しい言葉でしたが、新たな運動エネルギーを起していく可能性を感じました。道路や建物の段差をはじめとする物理的なバリア、就職などソフト面のバリア、こうした障害者の安心な暮らしを妨げている要因を一つひとつ取り除いていこうと、二年がかりで「出雲市バリアフリーのまちづくり計画」を策定しました。そのとき計画検討委員として協力いただいたのが第6代会長・野津春雄さんです。
計画の基本精神としたのは、個人の尊厳を謳った憲法第13条でした。障害はさまざまであり、一人ひとりの状況にも違いがありますが、重要なことは、だれもが自分らしく生きることであり、それを社会が保障していくことだと思います。
出雲市社会福祉協議会では、地域福祉に専念するため、介護保険事業等を切り離しましたが、視覚障害者の移動支援を行うガイドヘルプ事業だけは残しました。また、視覚障害者大会等にヘルパー派遣する際、利用者の負担というルールになっているヘルパーの旅費・宿泊費を社協で負担することとしました。健常者であれば自分で参加できますが、視覚障害の人にとってはガイドヘルパーの介助を受けることで大会に参加できます。しかし、そのためにヘルパーの旅費まで負担しなければならないのはおかしい、という考えからです。
この20年余りの間に、障害者の福祉制度は一定の前進を見ましたが、憲法13条の精神に照らしたとき、不合理ではないかと思われることはまだまだ存在します。社会福祉協議会としてできることは限られますが、一人ひとりが障害はあっても安心して暮らせる出雲市づくりに向けて、視覚障害者福祉協会のみなさんや市と共にスクラムを組んで進んでいきたいと思います。
祝 辞
公益社団法人島根県視覚障害者福祉協会会長 小 川 幹 雄
出雲視覚障害者福祉協会創立70周年記念式典おめでとうございます。
貴協会は、戦後間もない昭和23年に視覚障がい者の福祉の向上を目指して県下初の障がい者団体として産声を上げられ、島根県盲人協会(現・視覚障害者福祉協会)の結成にも大きな役割を果たされました。以来島根県の視覚障がい者団体のリーダーとしてまた、県内での福祉の推進者として活動を続けてこられました。ガイドヘルパー制度化や様々な媒体での情報提供等、県下の市町村のモデルとして運動の目標となりました。「出雲のように」というのが合い言葉となりました。
戦後70数年を経て我が国の福祉は充実し、国連の「障害者に関する権利条約」を受け、一昨年には「障がいがあってもない人と同様な社会的権利」を保証するという障害者差別解消法が制定されました。国や自治体、民間にも障がい者差別を禁止し、合理的配慮を国や自治体には義務づけ民間にも努力することを求めています。
障がいがある故にいろいろな分野で差別を受け、社会的権利も制限されてきた歴史を思うと隔世の感があります。とはいえ、真に差別がなくなるまでには多くの困難と険しい道のりが続くと思います。少しでも理想の社会に近づけるためには法律だけでなく、島根県や県下の市町村において、市民と障がい者が参加して「障害者差別解消条例」を作っていかなければならないと思います。これまで先駆的な役割を果たしてこられた出雲市でも一日も早い条例の制定を願うものです。
時代の変遷は良いことばかりではありません。視覚障がい者の職業的自立と経済的基盤として受け継がれてきた「あん摩、マッサージ、指圧業」が危機にさらされています。平成医療学園グループが提訴した「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等法」19条の違憲訴訟で被告の国が敗訴すればたちまち視覚障がい者の職業的自立と経済的基盤が失われることになります。「人はその能力に応じて可能な限り働き、可能な限り経済的自立を図る」ことが肝要だと思います。そのためには視覚障がい者団体や業団体が一丸となって運動をすすめている19条を守るための戦いを支援することだと思います。裁判の傍聴、はがき陳情、署名活動、募金に可能な限り参加しなければなりません。
創立70周年を迎えられた出雲視覚障害者福祉協会のますますの発展と共に島根県視覚障害者福祉協会の中核としての役割をお願いするものです。
祝 辞
出雲市身障者福祉協会 会長 和 泉 積
例年に無い厳しい冬の時期を通り過ぎ、新しい芽吹きの季節となりましたが、本日、出雲視覚障害者福祉協会の記念すべき創立70周年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。
貴協会におかれましては、激変する社会情勢の中にありながら、数々の困難を乗り越えられ、70年の長きにわたり、出雲市はもとより島根県における視覚障がい者の中心的組織団体として障がい者福祉の向上のため、大変なご苦労とご尽力を続けられ、これまで. 数々の大きな成果を上げられましたことに衷心より敬意を表する次第です。
さて、各障がい者を取り巻く環境は年々厳しくなり、同時に各障がい者組織団体では会員の高齢化、若年層の未加入等で年々会員減少傾向が続いておりますが、貴協会におかれましては、文化・スポーツ活動等をはじめとして各種ボランティア活動も積極的に取り組んでこられました。
また、障がい当事者としての率直な意見等も多方面で発信され、具体的成果として生かされてきています。このようにして現在に至る長い歴史を積み上げてこられたのは、会員としての自覚と皆様方の並々ならぬ努力の賜であると確信しております。
今後共、各障がい者団体と連携を図りながら誰もが住みやすい福祉社会向上を目指して活動される事を期待しています。
最後に、この70周年を節目にし、貴協会がさらに一層発展されますとともに、会員の皆様のますますのご健勝とご活躍を祈念し、お祝いのことばといたします。
出雲視覚障害者福祉協会のあゆみ
1948年(昭和23年)
8月18日 日本盲人会連合が貝塚市の二色浜で結成される。
本会の前身である「出雲市盲人協会」が県立浜山公民館で昭和23年の秋に創立される。初代会長 中祖和雄
1949年(昭和24年)
2月27日 出雲市の県立浜山公民館で、島根県盲人協会の結成大会が開かれた。初代会長 高尾正徳
12月26日 身体障害者福祉法が制定される。
1958年(昭和33年)
出雲市盲婦人部が結成される。
料理、お茶、お花などの生活訓練事業が活発に行われるようになる。
1959年(昭和34年)
4月16日 国民年金法公布。この年の11月から1・ 2級の身体障害者に月1500円の障害福祉年金が支給されることとなる。
日盲連全国大会が島根県で行われた。
1960年(昭和35年)
7月 身体障害者雇用促進法が制定される。
1961年(昭和36年)
4月 授産施設「出雲市盲人ホーム」が建設される。以降、昭和61年に廃止されるまで、我々視覚障害者の砦として各種の会合を始めスポーツ文化活動の場として大いに利用された。
1962年(昭和37年)
本会が高齢者マッサージ奉仕事業を始める。今年で57回となる。
(写真は2017年9月のマッサージ奉仕活動)
1966年(昭和41年)
出雲市盲青年部が発足する。盲人卓球を始めスポーツ活動を盛んに行うようになる
1969年(昭和44年)
9月 第2代会長 渡辺 進 就任
1970年(昭和45年)
5月12日心身障害者対策基本法が制定される。心身障害者の福祉を総合的に推進する目的。
1971年(昭和46年)
4月 島根ライトハウスが斐川町地内に湯の川盲老人ホームを開園する。
8月20日 島根県盲人協会20周年記念大会が斐川町地内で行われた。
1973年(昭和48年)
4月 第3代会長 大森 久義 就任
1976年(昭和51年)
身体障害者の雇用が事業主の義務となる
12月 ガイドヘルパー制度発足。本会にも事務局を設置し多くのボランティアの皆さんの協力によって事業が始まる。
本会がマッサージ奉仕15回を機会に直良光洋出雲市長より表彰状を受ける。
1977年(昭和52年)
島根県盲人協会が「社団法人島根県視覚障害者福祉協会」と改名される。
全国身体障害者スポーツ大会の盲人野球で島根県チームが二位となり銀メダルに輝いた。(本会から6名参加)
1981年(昭和56年)
出雲市が福祉モデル都市宣言を行う。
出雲市視障協と県視障協との共催で視覚障がい者の交通安全対策を求めて、出雲市駅〜市役所間で「白杖大行進」が行われ、出雲市長に視覚障がい者の交通安全対策に関する陳情書が手渡された。
1982年(昭和57年)
国際障害者年の宣言が行われる。(完全参加と平等)
第18回全国身体障害者スポーツ大会(ふれあい大会)が島根県で開かれた。
8月大森久義氏逝去 会長代行に三成勝正就任
1983年(昭和58年)
4月 第4代会長 三成 勝正 就任
1984年(昭和59年)
本会の名称を出雲市盲人協会から「出雲市視覚障害者協会」と改名した。
4月から本会で出雲市の「声の市政だより」のカセットテープのダビングと集配業務を始める。(毎月)
1985年(昭和60年)
1月24日 国民年金法が改正され、障害者基礎年金制度が昭和61年度より実施された。これによって障がい者の最低生活保障が行われることとなった。
4月 第5代会長 小野 洋三 就任
1987年(昭和62年)
身体障害者雇用促進法の名称が「障害者の雇用の促進等に関する法律」となる。
出雲市盲人ホームが廃止され、新たにサンアピリティーズ出雲(出雲勤労身体障害者教養文化体育施設)が建設された。
当会が出雲市社会福祉協議会久津名等平会長から表彰を受けた。
1988年(昭和63年)
創立40周年記念式典を盛大に行う。
1989年(昭和64年)
昭和天皇が1月7日に崩御され、翌8日から元号が「平成」と改められた。
これまで本会で行っていたガイドヘルパー事業は出雲市社会福祉協議会に移行し、専従職員を配置いただき、引き続いて行われることとなった。
高尾正徳氏に勲三等瑞宝章が授与された。
県視障協40周年記念大会が出雲市で行われた。
1991年(平成3年)
マッサージ奉仕日に当たり岩國哲人出雲市長より本会に対し感謝状が授与された。また、県総合社会福祉大会で当協会が県社協水津卓夫会長より表彰を受けた。
1992年(平成4年)
7月 小野 洋三氏会長辞任 野津春雄氏が会長代行となる。
1993年(平成5年)
4月 第6代会長 野津春雄 就任
12月3日 障害者基本法公布。心身障害者対策基本法を改正したもので障害者の自立と社会経済活動への参加の促進を位置付けたもの。
障害者対策に関する島根県新長期計画「ダイアモンドプラン」が策定される。
「ダイアモンドプランの名前は障害者一人ひとりが社会のあらゆる場面で ダイアモンドのように輝いてほしいとの意味。」
出雲市で福祉タクシー利用券の発行が始まる。
県総合福祉大会にて「長年にわたって高齢者マッサージ奉仕を行ってきた」ことにより、澄田信義島根県知事より感謝状を受ける。
10月 湯の川温泉盲老人ホームが斐川町荘原より上直江に移転新築され、かんなび園に名称変更される。
1994年(平成6年)
4月より出雲市の社会福祉協議会の音訳ボランテァの皆さんによる市の広報をはじめ、市議会だより、社協だより等の音訳ボランテァ事業が始まる。
本会が第3回全国ボランティアふぇすてぃばる岩手大会で、長年にわたり高齢者マッサージ奉仕を行ってきたことにより、厚生大臣より表彰を受ける。
1995年(平成7年)
渡部進氏に勲五等瑞宝章が授与される。
1996年(平成8年)
本会は「出雲市視覚障害者協会」から、「出雲視覚障害者福祉協会」と改名した。
4月より障害者作業施設(トライ)で市の広報を始め市議会だよりなどの点訳事業が始まる。
市政55周年記念に本会の高齢者マッサージ奉仕活動に対し西尾理弘出雲市長より団体表彰を受けた。
1997年(平成9年)
「出雲市福祉のまちづくり条例」が制定される。
1998年(平成10年)
本会創立50周年記念式典を行う。
2000年(平成12年)
6月11日 島根県視障協の福祉大会が出雲市で開催された。
2001年(平成13年)
7月 島根県保健鍼灸マッサージ師会が結成される。島根県でも鍼灸マッサージによる保健治療が始まる。
2003年(平成15年)
4月 第7代会長 坂本節明 就任
出雲市による視覚障がい者に対するパソコン貸与事業が始まる。これによって、視覚障がい者の皆さんが音声パソコンを利用して読み書きができるようになると同時に、多くの情報を得ることができるようになった。
2004年(平成16年)
5月 補装具中、白杖は同時に2本の支給が可能になった。
2005年(平成17年)
3月22日 市町村合併が行われ、2市4町が新しく出雲市となる。
7月 島根県鍼灸マッサージ推進協議会が提出した、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律ならびに関係法令の遵守と違法者取締りの徹底強化に関する請願書が島根県議会で採択された。
2006年(平成18年)
4月 自立支援法が施行される。これによって、「自助・共助・公助」という概念が定着する。
6月11日 県視障協の福祉大会が出雲市で開催された。
出雲市議会であん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律ならびに関係法令の遵守と違法者取締りの徹底強化に関する陳情書が全会一致で採択された。
2008年(平成20年)
本会が60周年を迎える。
日常生活用具の指定品目としてパソコンが視覚障害者も認められることとなる。
2011年(平成23年)
10月1日斐川町が出雲市に合併する。
日盲連全国大会が島根県で行われた。
2013年(平成25年)
4月 第8代会長 古角 篤 就任
社団法人島根県視覚障害者福祉協会が公益社団法人島根県視覚障害者福祉協会となる。
4月 障害者支援法が施行される。
2013年(平成25年)
6月 国民年金・厚生年金保健の眼の障害認定基準が改訂された。(両眼の視野が3度以内から10度以内に変更)
2014年(平成26年)
1月 障害者権利条約が批准される。
2015年(平成27年)
4月 第9代会長 若築博延 就任
2016年(平成28年)
4月 障害者差別解消法が施行される。これによって公務員に対して障がい者に対する配慮義務が課せられることになり、民間人に対しても障がい者に対する配慮を行うための啓発運動が行われるようになった。
視覚障がい者用地デジ対応ラジオが日常生活用具に指定される。
2017年(平成29年)
日常生活用具として音声付き血圧計が指定される。
6月11日 島根県視覚障害者福祉大会が出雲市で開催された。
2018年(平成30年)
公文書の差し出し者の点字表記が始まる。
視覚障害者の障害認定基準の見直しが行われ、これまで「両眼の視力の和」とされていたものが、「良い方の眼の視力」で行われることとなった。
4月1日 本会の創立70周年記念式典を行う
創立70周年に寄せて
元会長 野 津 春 雄
出雲視覚障害者福祉協会創立70周年記念おめでとうございます。
振り返ってみまして特に思い出に残っていることを書いてみたいと思います。
初代中祖和雄会長の時に始められた、高齢者に対する治療奉仕はすっかり根付いて今年は57回目を迎えます。社会が少し落ち着いて来たその頃から手つかずの障害者福祉にやっと目が向けられるようになりました。
島根県盲人協会20周年記念(斐川町)大会において高尾正徳会長の指示で医療費助成を行政に訴えました。このことが間もなく受理されたことはほんとに忘れられない思い出になっています。
そして、平成になって「ガイドヘルプ」制度ができ交通面では道路に点字ブロックが敷設され、音響信号機が設置されました。
こうした数々のことを行政機関にお願いに行きました。その折りの行政の窓口ではご理解ある対応をして頂き嬉しかったことを思い出します。
障害があってもこれをカバーしてもらえる社会があれば暮らしやすい街になると思います。出雲市は「障害者福祉都市」を宣言しています。
今後ともこうした環境づくりには今まで以上に力を入れていただく事を念願して結びとします。
女性部長になって
今思うこと
女性部長 落 合 砂 代 子
思い起こせば早いもので私が部長になって14年が過ぎようとしている。まるで昨日の事のような気がする。
私が女性部の部長になったのは平成17年の5月だったと記憶している。当時は小泉政権の真っ只中であり、小泉政権の政策により平成の大合併が行われた。
私達大社町も文字通り市町村合併する事になり、出雲、湖陵、多岐、佐田、平田、大社の2市4町が合併した。それに伴い視障協も合併の運びとなった。
私は合併する前から出雲の女性部と大社の女性部は交流があったので別に違和感は全くなかった。丁度 その頃だったと思う。役員改選があったのである。
なぜか私に白羽の矢が当たったのだ。今まで会に出てもお客さんだった私がまさか本当に部長になるとは夢にも思わなかった。自分自身信じられない出来事だった。右も左も全く分からず困惑した日々が続いた。当時はお金も無くて行事すらやるのが大変だった。メイクの講習を行ったり、会員に化粧品を買って貰ったり、廃油石鹸を買って貰ったりして当座の会費にした。その頃は県の女性部からもお金は降りず、それでも活動はした。年に5、6回生け花をやり、4月には総会、7月にはリクリエーション、11月には作品展、1月には新年会、その間の月はゲームや講師先生を招いてお茶の講習もして貰った。
当日は会費を集めて遣った。それは今でも変わりはない。今変わりつつあるのは会員の人数と皆が年を取ったことだろうか? それに伴い行事も減ってきた。致し方ないことだろうか! 今、私が切に願うのは一人でもいいから新しい人が入り、活躍してほしい。そして会を盛り上げてほしい。
創立70周年に当たり〜私の意気込み
理事 永 井 良 並
出雲視覚障害者福祉協会創立70周年、おめでとうございます。
入会して10年足らずですが、70年という年数に歴史を感じ、更にこのような節目の記念式典に携わることが出来ましたことに深く感謝しております。先人達の弛まぬご努力を忘れず、今後も受け継いでいく必要があると感じております。
さて、我々視覚障害者にとって、ラジオは欠かすことのできないメディアであります。テレビとは異なり、耳からの確実な情報入手が可能であることは言うまでもありません。これを時計代りにも利用していらっしゃる視覚障害者は多いのではないかと感じます。継続して番組を聞いていると、「この番組のこの音楽やコーナーのときには概ね何時何分頃だ」と、見当付けが可能になるものです。
あれは確か三年ぐらい前の三月中旬のことでした。某地元民放ラジオの午後の番組内で、男性アナウンサーがとんでもない時刻告知の間違いをされました。
それも10分もの誤差が。
こんな経験は初めてでした。一生に一度出来るか出来ないかという経験に思えました。秒単位、大きくても一分の誤差であれば…。その後、時間の経過とともに私の感情は高ぶり、やがて憤りへと。そこで私は、これではいけない、自分だけではなく多くのリスナー、とくに視覚障害リスナー皆のためを考え、番組終了後にすぐ電話で苦情を言いました。それでも不安で、数日後に今度は朝と午後の両方の番組宛てに、苦情のメールを一斉送信しました。その日の朝、番組で
「時刻告知のことですね…」とアナウンサーがおっしゃったことを覚えています。
その後、改善されたかと思っていましたが、それでも9時を10時と言い間違えるなどが時たまあったため、粘り強く電話を続けた結果、最近では、大変正確な時刻が告知されるようになり、感謝の気持ちでいっぱいであります。
現在ではパソコンやスマートホンを使用して有料で全国のラジオが聴取出来るサービスが存在するため、この行動が今後、出雲市だけでなく山陰、更には全国の視覚障害者や一般のリスナーの皆さんの生活の質の向上に繋がることを願わずにはいられません。
正しい情報が電波に乗せられなければなりません。誤った時刻を告知するなんて言語道断であるため、人から笑われようが馬鹿にされようが、この行動は正しかったと思っております。黙っていては前進しません。生活環境を改善していくには、何か行動を起こすことが大切であると感じています。
改善要望等をしても、すぐ実現する場合や実現まで時間がかかる場合、全く実現しない場合、それぞれあるでしょうが、根気強くやることなのではないでしょうか。
私はこれからも視覚障害者の生活改善のため気の付いたことは積極的に行動を起こそうと思っています。
70周年記念誌によせて
理事 石 川 美 穂
このたびは、視覚障害者協会創立70周年、おめでとうございます。先輩方の努力のおかげで今日の私たちの安心した生活がありますことと心より感謝申し上げます。
また、行政におかれましても、私たち視覚障害者のよりよい生活のために、サービス及びサポートを提供してくださることに心より感謝申し上げます。
私は知人に紹介され、平成15年(2003年)にこの協会に入会してから早15年。月日が経つのは本当に早いものですね。私は出産により弱視から全盲になり、外出がより困難となりましたが、ガイドヘルパー制度のおかげで、以前と変わらずショッピンググなど外出を楽しめることは本当に感謝しているところです。
子供たちが小さいころは全盲になったことに意識を向けることもできず、目の前のことをやりこなすことに精いっぱいの日々でした。全盲になったうえでの子育て、本当に大変なものですが、両親をはじめ、友人や知人、ガイドヘルパー、介護サービスのおかげで今日まで安全に過ごすことができています。子供たちは小学生になり、学校や地域から様々な書類が配布されますが、手書きの文書について音読してくれるようなサービスがあればいいなと感じています。また、子供たちの宿題などでわからないところがあったりすると私たち視覚障害者は書いて教えることができず、サポートがあればと望んでいます。
ほかにも、家庭内で使う炊飯器や洗濯機などの電化製品に点字が付記してあり少しずつではありますが使いやすくなってきています。取扱説明書をなかなか読むことができず、ボタンを何回押すかで使用したいメニューを覚えるようにしていますが、そのあたりが、より分かりやすく使いやすくなればいいなと日頃感じています。点字付きや音声化が日常的に普及すれば、より暮らしやすくなることでしょう。また、食料品などの買い出しについて、生協などのネット通販を利用してみたいと思うのですが、初めての時だけでもサポートがあれば利用しやすくなるように思います。
以上のように、ほんの少しのサポートやサービスで私たち視覚障害者の生活はずっと楽に安心して生活できるのではないでしょうか?
次に福祉教育についての思いや願いを書いてみたいと思います。
私が全盲になって疎外感を感じることが多くあります。一般の方々は私たち障害者のことをどう思っているのでしょう?私は弱視の時は少し不自由でしたが一人で行動することはできていたので気にしたことが正直なかったです。ところが全盲になってからは外出さえままならず、ヘルパーさんがおられないと自由に歩くことはできなくなりました。そんな「障害者と健常者の関係がより身近にあったら…」と感じたものです
一つエピソードをあげておきます。先日、電車に乗ろうとしていた視覚障害者の方を外国人のカップルが当たり前のように空いている座席まで案内してくれる場面に遭遇し、「なんと当たり前にしてくださるのだろう」とうれしく感動しました。このように、それぞれがそれぞれの立場を超え、より身近にバリアフリーで関わりあえたらいいなと思います。このエピソードのように困っている人を見かけたりしたとき、当然のように手を差し伸べてもらえる環境づくりの必要性を感じ、ともに共存していることを認識できたらいいなと思います。そのためにも、子供のころから様々な人たちが共存して生活していることを伝えていけたらと願っています。例えば小学校の福祉教育で盲導犬だけでなく弱視の人や全盲の方々が日頃の生活で工夫していること、「できること」と「できないこと」などを明記したパンフレットなどを作成して配布してみたり、アイマスクを着用して視覚障害者の体験をしてもらったりすればいいのではないかと私は思います。そうすることで、より私たち視覚障害者のことを理解してもらえるのではないでしょうか?また、町で見かけたときの声のかけ方、サポートの仕方などを知る機会があればいいなと思います。
私たち視覚障害者もどんどん社会へ思いを発信して、身近な人から手を取り、心を寄り添いあって安全に楽しく過ごしていきたいですね。
最後になりましたが、視覚障害者協会のますますの発展をお祈りして結びの言葉とさせていただきます。
創立70周年記念事業実行委員名簿
実行委員長 若築博延
副委員長 古角 篤、落合 砂代子
実行委員 山本 正敏、北脇 幸生、植田 昇、原 益弘、金築 和也
永井 良並、柳楽 芳子、石川 美穂
編集後記
年のたつのは早いもので、本会が創立されて今年で70周年を迎えることとなりました。
その間本会では視覚障がい者の生活環境を整えるため、福祉運動をはじめ、各種の活動を行ってまいりました。
また、視覚障碍者の経済基盤となるあはき業問題についても取り組んでまいりました。敗戦後、あはき業がGHQによって禁止されようとしたときに全国の同志の皆さんが一丸となって業権を守り抜かれたといわれています。
現在、あはき業は危機にさらされています。我々も今こそ立ち上がる時ではないでしょうか?
最後に、このたびの記念誌発行にあたって、ご協力いただいた関係各位に対し、実行委員一同改めてここに深く感謝申しあげ、お礼の言葉といたします。