明日(みょうにち)医術(いじゅつ)』削除された御言葉

『 最後に断っておきたい事は、此著書は今日の時勢では、出版は困難であらうと思ふのである。それなら出版出来ないものを何故書いたかといふと、それは斯ういふ訳である。何れ何年か何十年かの後には、必ず現代医学の欠陥が曝露されて、私が創成した此日本医術が非常な勢を以て世の中に推奨さるゝに違ひない事を確信するからである。何となれば誤謬は到底永続すべき筈がないと共に、真実は永く埋れている筈がないからである。』
(昭和十六年十月)


明日の医術=本篇は脱稿時点において社会情勢から発刊不可能を覚悟された出版物であり、当初その旨を序文に記されていたが、昭和十七年刊行することを得たものである。
上記にその際削除された序文の一部を参考のため掲載する。


「先達の寄稿

神秘な御神業

 昭和十六年の正月も過ぎた或る日の事、渋井先生が獨り言のように、次のような事を云っていました。
 「宝山荘の所有権に関する訴訟で、供託金を六万円積まないと、大先生があそこに居られなくなる、五万円までは出来たがあとの一万円がどうしても出来ない。と、御言るので私も一生懸命工面してみたが、まだ一万円にちょいと足りない困ったなあ」とつぶやいていました。

 事の起りは、大分遡りますが、昭和十年宝山荘御入手に際して、売り値十万円に対して五千円しかないので、売り主にありのまゝ話をすると、兎に角一万円入金してくればすぐ立退くとの事で、他から五千円借り都合一万円の金を入れて、昭和十年十月一日麹町山元町の仮本部から移轉されました。三ヶ月後第二回の支拂ひ二万数千円を、七ヵ所借りしてやっと払った訳です。

 ところが、その土地家屋は勧銀に担保に入っていたが、右の売り主は殆んど年賦金を一文も入れず、それを秘密にしていたので、買ってから気が付いたけれども、どうしようもなかったわけです。

 そのうち冠勧銀は宝山荘の土地家屋を競売に出されたのです。

 第一回五万円で札の入札がなく、第二回四万五千円で出されたので、第三回にはもっと安くなるからその時札を入れようと思っていたら、第二回の四万五千円に入札した者が現れたので、びっくりして弁護士に相談すると、競売決定までに一週間あるから、その間に異議の申立をすればいゝといわれて、一縷の望みが出来たわけですが、その一週間目の日に弁護士が明主様の処へ来たのですが、その用件はすっかり忘れていたんですね、帰へりに某所へ立寄った処、そこの人曰く「岡田さんの競売決定の期日が一週間とすると、今日あたりではないか」との事で、弁護士「コレハ大変だ、確かに今日が期日だ」というわけで、すぐに事務所に帰へり書類を作り、裁判所へ持って行ったのがその晩の十一時で、後一時間遅れれば、右の不動産屋は永久に落札者の所有に帰する処で、まことに危ない一時間でありました。

 本教の基礎を造ったのは、宝山荘であるからその時失敗したら、今の発展はあり得なかったろうと明主様が御言っていらっしゃいました。

 その競売異議申立に要する保証金は、相当額であったが奇蹟的に間に合って、危ふく敗れる処を最后の一厘という処で、桃の実(百円札)のお蔭で勝てたとお聞きしました。それが昭和十三年のことでした。

 その事件が解決つかぬまゝ、昭和十六年立春を境に再び訴訟となり、供託金を積んで最后の桃の実を投げつけ、霊的黄泉(よもつ)戦軍(いくさ)を追ひ散らしたわけです。その後御面会の折節にあの時渋井さんが桃の実になってくれたと、たびたびお聞きしました。

 昭和十六年六月十五日を期して、神秘な御神業にお入り遊ばされたのです。

 即ちその年五月二十三日渋井先生とその弟子数人を伴として、丹波の国神守(こうもり)の元伊勢皇大神宮に、天照皇大御神に関する神秘な御神業の為御参拝なされました。

 月余の後即ち七月一日、こんどは中島先生とその弟子数人を伴として、伊勢の皇大神宮に御参拝、玉垣内に入り宮前に額づいて祝詞を奏上するや、本殿の中より神の声あり「デハ私はこれから故郷に帰へらして頂きます、後は宜ろしくお願ひ申します」と、明主様の傍らに別の声ありて「長い間御苦労であった」明主様は、愈々天照大御神とお留守居の神との交替である、愈々日本の霊界が明るくなり、正邪善悪の是正が行はれるのである。いづれ形の上にはっきり現はれる時が来ることを確信され、それが四年を経て明らかにされたのです。

 また六月二十二日、香取、鹿島に詣でられました時、鹿島神宮に於て参拝の時、無声の声が明主様の霊耳にひびきました。「貴方様が重大なお役をなさる事になったお祝ひを申し上げ、諸々の神が御守護なさるその一柱が私です、御参拝に来られた御礼を申上げる」と、その神は建甕槌(たけみかづち)(みこと)であったと霊感されたそうです。

 善光寺に於ては、阿弥陀如来が「もう少し経つと印度(インド)へ帰へるから、それまでは悪く云わないようにして欲しい」と、霊示を聞かれた明主様は流汗三斗の思ひがして、今まで阿弥陀様を非難などした事を陳謝されたら、如来も快よく挨拶された由であります。

 日光の裏の湯西川温泉は今でこそ便利もよくなりましたが、昭和十六年八月明主様がお出でになられました頃は、川添いの道を牛車に揺られて行かれました。

 なぜそんな邊鄙(へんぴ)な処へいらしたかというと、その村は平家の落人部落で、里とはまるで縁もつながりも持たない村です。その村人達の中には何十年も病人が出た事がない、至って健康な人達ばかりです。

 その秘密は、昔から里と縁のないまゝ昔ながらの自然に近い農法で獲れた、野菜穀物などが主食料で肉類は食した事がないということを聞かれたからです。宿で卵を所望したところ、鶏も飼っていないので卵もありませんと断られた程の、菜食のみの村人が稀に見る健康人ばかりであることに、明主様はそれまで御研究になっておられた、無肥料栽培こそ、神示の農法であると確信を持たれたそうです。

 昭和十六年二月立春を期して、中島先生、渋井先生を始め地方に分散されましたお弟子さん達が一斉に、講習を(現在の教修)開らかして戴きました。
 これより先、昭和十一年大宮警察と昭和十五年玉川警察による、不当干渉とも思へる、医師法違反なる名のもとに弾圧を受け、明主様は時代の推移を霊感し、当局によって禁止される以前に、それまでの岡田式神霊指圧療法を自発的に廃業され、それを機会に地方開拓の準備が整ったということは、すべて深い御神意のまにまに御経綸は進められたものと拝察申上げる次第です。

 多面的御活動にお入り遊ばされました明主様は、関東各地の神社仏閣の神霊仏霊に対する神秘な御神業と、晴耕雨描の自然農法の御研究と、光明如来様、観音様の御尊像描画、そして、どうしても薬剤迷信を打破せざる限り、地上天国建設は出来得ないとして、薬剤の迷信と医学の誤謬を、天地自然の眞理より説き起して徹底的にその非をつき、世に問ふべく上中下三巻に恒る明日の医術を出版、その祝賀の会を昭和十八年九月、東京丸ノ内中央亭に催し、世の反響を心待ちしておられましたが、そのお耳に意外も意外、この人類救済の悲願を籠めて執筆なされた『明日の医術』は三巻とも十九年二月に出版禁止の処分を当局から受けねばならない悲運に見舞われました。
恐らくその蔭には、神示の医学に出られてしまっては、もう一歩で人類を絶滅すべき邪神の陰謀が()いえて(しま)ふので、ここを先途と救世の神の進路を塞いだものと思はれます。
引続いて出された結核の正体を開明せられた出版物も、見て見ぬふりをされる始末で、なかなかに永い時代を通じての迷信を打破することの容易ならざることを知らされました。

 昭和六年九月十八日満州柳条溝の鉄道破壊に端を発して満州事変となり、その終結のいざこざの続きが、昭和十二年七月七日盧溝橋の爆破事件から支那事変となり、不拡大方針を唱へながら逆にどんどん拡大され、遂に世界を二分する第二次世界大戦にまで発展してしまいました。

 こうした事が明主様の御神業の上に一つ一つ雛型として、先に現はれているという事を、ちょうど昭和十四年の夏の始めの頃から、ご高弟の渋井先生から日独伊が同盟を結び、英米その他の国を向こうに廻して、世界を二分する戦争が起こる、ということをよく聞かされました。世界的にそんな()もない頃のことです。ですから全然信用していませんでした、それがどうでしょう十五年の夏頃には三国同盟の機運が盛り上がって来ました。ほんとに吃驚致しました。この事実が私の専従を決定づけたようなものでした。

 満州事変の起る三ヶ月前、明主様はある雛型によって、そうした事の起る事を既に御存知でいらしったそうです。そして万州事変が起る事によって、やがて(よろづ)の国が争ひに巻込まれることを雛型によってご存知であったのです。

 昭和十六年十二月八日の真珠湾事変の起きた時、この雛型は六年前に既に出ている、愈々(いよいよ)夜の世界の終りの時が来るんであると御言(おっしゃ)っておられました。

 そして世界中が巻込まれしまった世界戦争に発展したのです。

 その頃既に明主様は、日本は負けることが判っていらしたようです。よく信者にこの戦争は九分九厘負ける、そして最后に一厘で勝つと、謎のように御言(おっしゃ)っていました。

 ですから、第二次世界戦争の始る前から、既にお弟子さん達を疎開させておいたわけです。それが戦中から戦後日本中にお光が光被さるる元種であったわけです。


「先達の記録」

昭和十六年十二月八日
 当日朝電報にて呼び出しを受け、富士見亭に参上すると、約十名位の人が集められていた。
大先生は先ず奥様に席を外すようにと言われた後
『この戦争は負ける。他言なきよう』と一言仰せられ、
そのあと、しばらく間をおいて『それからがあなた方の天下である』 と仰せられた。